SSブログ

1980年 たち吉 アダム&イブ [1980年代 お気に入り]

♪BGM 惑星と女性の横顔をモチーフにした劇画風のアニメがめまぐるしく展開する。 様々な色とりどりの食器が空間に現れる。食器のデザイナーが暗めの照明で登場し、名前がローマ字で表されている。
Na:「Dinner ware Adam&Eve」

 もうこのキャプションと静止画では何もわかんないわけです。このCM。分かった人がいたらすごい想像力だと僕がほめてあげます。そのくらい意味がわかんない。正直言うとですね、じゃあ動画持ってきてここでバーンと見せたところで多分余計にわかんなくなるんです。このCM。何でそんなCMをここで選んだのだ、と言われればそれには長いわけがあるのです。

たち吉といえば知る人ぞ知る食器の名メーカーなんですが、そうではない人には全然聞いたこともあるはずが無い名前ですよね。しかもそうたくさんCMを打っているわけではない。このCMはあるスペシャル番組のタイムとして流されたものです。そうなればここはたち吉も一念発起してここぞとばかりにたち吉の社名をみんなに覚えてもらえるようなCMを作るぞ!となるのが普通の考えだろうかと思います。

ところがこのCMですよ。さっぱり意味が分からない。僕はたち吉のことを良く知っているし、料理が好きなので食器にも気はかけているから、すぐわかるはずです。でもそんな僕も注意して2度ほど見ないとたち吉だとは分からないわけです。
こういうのって恐らく世間的には「失敗」の部類に入るんだろうと思います。それこそポンジャンのCMのときにちょっとお話した「印象に残らないから忘れられていく」CMの部類だろうと思うんです。

正直言うと僕はこのCM最初は意味が分からなかったけれど、何度か見てるうちにものすごく好きになってしまいました。理由は一つ、心意気ですよ。
言ってみればこのCM、めったにCMなんか出稿しない食器メーカーが大舞台で出したものにもかかわらず「わからんやつはイモ(←ハイセンスでないことの80年代的表現)」と切り捨てるこの真っ向勝負はもはやテレビの視聴者への挑戦状だと思うのです。
僕の勝手な推測では、80年代の前半までくらいは今よりも視聴者のCMというものの表現についてのキャパシティが広かったような気がします。その理由はまたお話しようと思いますが、80年代前半のCMにはこの”大人の視聴者”にいろんな解釈をゆだねたCMが多く存在していたと思うのです。

食器ももはや80年代になればわざわざ選んで買うという行為は立派なおしゃれ行為以外のなんでもないものです。そう考えればアパレル、インテリアのCMなみにハイセンスになったってなんらおかしくはないし、不思議ではないと思うのです。
でもめったに広告を出さないのに、受け手をこれだけ選ぶというのは今のような不況の時代ならばもはや決定した時点で負け組みです。しかも、意味が分からないことで目立とうとしていない、単に見る人のセンスの高さだけが求められるというのは、こちら側にしてみれば実に難しい挑戦状です。

さて、問題はこのCMを失敗と切り捨てるのは広告鑑賞者として正しい営みなのか、という問題です。僕はどんな広告もかならず「広告として機能しているか」の一点だけは忘れずに鑑賞をしているつもりです。このCMに関してだけ言えばどんなに多く見積もっても広告として、売り上げを上げるという意味での成功はしていないと思います。
けれど、どうしても失敗だとは僕には言い切れないんです。それはこういった気風のよさがまさに僕の好きな80年代前半の広告の大きな魅力そのものであるし、当時の視聴者にはこの挑戦が成り立つと仮定できるほどのキャパシティがあったんだ、という一種の憧れがあるのだと思います。

僕たちが「記憶」と「売り上げ=広告の数値的価値」をカギにして「このCMは成功、失敗」と振り分けるのはいとも簡単なことですが、本当にその作業はCMがTVの画面に流された時点で獲得しているであろう社会性や意味合いを正しく理解できるものでしょうか。僕たちはもっとこういった一見「訳のわかんない」CMにも、ポンジャンのCMのようなみんなの記憶に残っているCMと同じように接するべきじゃないのか、とちょっと考えさせられたCMでした。
このCMが流れてもう24年、それでもまだ答えは出ていないような気がします。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。