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1981年 AGF ブレンディ [1980年代 お気に入り]


BGM♪(歌はゴダイゴ) 青年がバイクで誰かにコーヒーを届けていっている。牧場の中を抜け、コーヒーのカットが一旦出る。その後雪道を転びそうになりながらもコーヒーを片手に運転している。
ナレーション:「人は人が好きだと思いたい。そばに来て、ブレンディ、おいしいよ、ブレンディ。」
最後のカットで、たくさんの人が青年を先頭に階段状に整列していっせいにコーヒーを飲む。カップを前に一斉に出すのと同時に商品カット。

僕のこのBlogの一番最初を飾ったグランデージに続くインスタントコーヒーものです。本当にAGFのインスタントコーヒーのCMってステキなものが多いなと思います。これはおそらくグランデージよりも商品の格付けが下なので、若向けのアプローチなのでしょう。ヘルメットもかぶらずに、何度も転びそうになりながらコーヒーをバイクで運ぶこのおにいちゃんはともすればダサく映ってしまうところをすごくかっこよくなっているのがさすがです。

格調高いCM枠を演出している、と思われているネスカフェの一連のCMよりもよっぽど身の程を(商品がインスタントコーヒーだって言う)わきまえた好感の持てるCMだと僕は思っています。この他にもいっぱいお気に入りはあって、それらも順々に紹介していく予定です。
このCM、つくりから見るとどうも他にもバージョンがあったっぽいんだけれど、残念ながら僕が持っているのはこれだけ。実はAGFも70年代にはネスカフェ路線の高級な感じのCMをたくさん作っていたんだけど、その路線をやめるようになってから良くなったと僕個人は思っています。このブレンディの商品パッケージに書いてあるMaxwellはこのCMの本の5年ほど前はまだAGFではなかったんだけど、その時はパット・ブーンとかCMに出ていたし。これはネスカフェ路線だったと思います。

映像がカッコイイだけじゃなくて、「人は人を好きだと思いたい」っていうコピーとか「そばに来て、おいしいよ」っていう物言いがじつに80年代の幕開けを感じて大好きな一本です。ゴダイゴの歌もゴダイゴっぽく聞こえないのもポイント高し。
気持ちまであったかくなるコーヒーこそ僕は飲みたいと思いますね。高級感云々よりも。

商品を売るのに、どういう風に差別化を計るか、という点において、もはや消費者は広告が言いたいことをそのまま受け取ってそのように消費するんではなくて、消費者自らが商品の意味合いを広告との兼ね合いの間に発見するのだ、という「言語学から消費社会論」への—つまりロラン・バルトからボードリヤールへのとも言うべきなんでしょうが—移行が如実に表れていてこの辺は興味深いです。
ていうか何よりも興味深いのはこうした学術的な論説を「そもそも広告制作をする人」が誰よりも早く取り入れ、実践に適用していたということへの驚きでしょう。
意外と広告って時代の気分とかだけではない緻密な計算がされているものです。ただ、その目的が「よい広告」へのみ向かっているというのは僕たちもよく認識する必要があるでしょうけれど。

難しい話ですみません。


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コメント 5

porepore

このCMは確か、パーティー会場にブレンディを届けるんでしたっけ。このバイクの男性のバンダナとか服の色使いなんかがもろに80年代初頭ですね。
このころのCMで、特に若者が集っているシーンなどの演出が今とはずいぶん違うように思えます。それは何なのか、と考えるに、たぶんシニシズムとかニヒリズムがカケラもないことなんでしょうな。ものすごくまっすぐでやわらかい。言い換えると軽薄で軟弱。かっこ悪いのにあったかくて心地よい。今のCMだとこうは描けないのでは。90年代の10年間でわれわれが失ったものが写っているように思えます。90年代に日本をおおった「クール」という概念は嫌いじゃないが、どうにも付き合いにくい
by porepore (2005-12-21 18:00) 

grand-age

パーティー会場だったかなあ。なんか違った気がします。でも僕が持っているのは15秒のバージョンなので、もしかしたら30秒はそう言う設定だったのかも知れませんね。
poreporeさんが感じているような違いは広告制作の元になっている理論の違いとかもあるんだと思いますよ。
本文にも少し書いたんですが、80年代の広告はまさに記号論を取り入れ実践しているような所があります。記号論=構造主義(乱暴な分有為ですが)の理論そのものと一緒に共生していたような部分があると思うんですよね。
でもこのことが80年代の広告を非常に面白くしてくれた原因だとも思います。僕は構造主義は嫌いなのですが。
by grand-age (2005-12-22 16:22) 

porepore

うーん、記号論とか苦手。
つまりは当時のCMは「さわやか」とか「社会的地位」、「ブランド」といった記号を散りばめて構成しているということかな?記号化することで「物語の消失」とかも起こるのかな?んで、そういったアプローチは今は消えた、ということ?ある程度社会がまとまっていたので、記号に何かを託しえた最後の時代、ということは言えるのかな?あーよく分かりません。も少し詳しくプリーズ
by porepore (2005-12-22 17:50) 

grand-age

うーんとものすごく簡単に説明すると、「広告には表面的に表れている意味と、中に隠れている意味がある」っていうのが記号論の要旨です。つまり、その広告の「本音」こそが広告およびそこでの商品の意味であって、消費者はイメージを買わされている、としたのが僕の言うところの記号論です(ロラン=バルトあたりが筆頭だと思います)。
僕がここでボードリヤールと書きましたが、この人が言った「消費社会論」ってやつは、記号論で無視された受け手の我々の意味解釈のプロセスを重視します。
もはや受け手は単なる「受身」ではなくって、商品と、自分との間に自ら意味を見出して、自分の考えるライフスタイルに合わせて商品を選ぶようになる、という要旨です。
ここでは商品というものが自分のライフスタイルを表す「記号」として消費されている、というのがポイントです。
前者は言語学者が好んで分析に用いた方法で、後者はその批判としてボードリヤールが提唱したものですが、僕の私見では相容れないものではなく、連続性があると思っています。そういういみで「記号論」といいました。
ブレンディの広告では、それまでのインスタントコーヒーの広告によくあった「高級感」っていう「本音」の部分を受け手に《提示》するやり方が多かったのに対して、もはや提示された広告の本音まで分かってもその通りに受け取らない消費者が多いことから、その消費者が自分のライフスタイル形成にあわせて商品を選ぶ際に、ブレンディを選んでもらえるようにスタイルの提示に方向が切り替わっているところがミソだと思うんですよね。
でもこれは学者があたってた、というよりも学者の意見を誰よりも早く取り入れていたのがまさに広告の製作者であったのが原因なんですけれどね。

そうやって広告をつくってきて、「実は消費者のほうではそれほど熱心に解釈作業をしていないのではないか」ということに気がついたのが現在のようなCMの結果に表れているような気がします。
by grand-age (2005-12-23 02:35) 

porepore

ももももう少し具体例を…。記号論の本とか苦手なのは具体例をあまり挙げないで話が進むことが多いからなんです。

例えばブレンディを例に挙げると、「貴族の味」的な高級感を直接訴えるCMから、「楽しい仲間が集まって、さあブレンディ飲もう」的な表現に変わっていった、と。「高級でありたいなら、これを飲め」から「楽しいね」、直接的な表現から間接的にイメージを売る方向に。乱暴に言うとこんな感じですか?

一知半解のまま、いくつか質問。

まず80年代は日本のCMの成熟とともに、海外のCMの低レベルさが話題になっていましたが、そうなると記号論的手法は日本の広告業界でのみ流行したのでしょうか?当時は消費大国アメリカのCMが比較広告ばっかで視聴者もウンザリってころで、少しだけ違和感があります。
そういえば、80年代半ばに来日した米国人の知り合いは、日本のCMを「こりゃすごい」とずっとビデオ録画してましたっけ。

もう一つ、現在のCMって直接的な表現に戻っているんですか?「燃焼系アミノ式」とか見ると、確かに手法は洗練されてるけど直接的な表現かも。
by porepore (2005-12-23 09:56) 

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